更新 2011/03/03

渡辺富工務店

富工務店の来し方を想う


第1話

 終戦後、満州から引き揚げてきた前会長(渡辺富録 平成11年逝去)が
焼け野原同様となった東京市街を見て、「よし、俺が家を建てよう。」と
在満時代、辰村組に勤務していた建築屋としての経験をもとにして
「家づくり」を始めたのが(株)渡辺富工務店として引き継がれております。
 而し、はだか同然で帰国したのですから、とりあえず妻の実家である
新潟県の田舎に帰ってきました。
 富録さんは渡満する前は教師でしたから、教え子たちが先生の為に
当時(昭和20年)のお金で5万円を贈ってくれたのです。
教え子の励ましに富録さんは涙しながら上京し、努力・忍耐・アイデア等々、
体力と精神力のすべてを使って建築屋としての第1歩を踏み出したのです。

つづく   (青) 

第2話 建築技能士の養成

戦後の昭和20年から30年頃は食糧や物資の不足している時代でした。
富録社長も現場で3回も自転車を盗まれ、頭にきて
「よし、俺も盗んでやろうと思ったけど、さすがにそれは出来なかった」
と話していました。

その中で特に富録社長を悩ませていたのが
「大工は手抜きをする」「職人は柄が悪い」と言われることでした。

師範学校を出て教師の経験があった富録さんは、それなら「俺が大工を養成しよう。」
そして「"手抜きをする"だの、"柄が悪い"だのという悪評をなくしてみせる」と
強く心に誓い、まず師範学校の先輩、後輩が勤務している故郷の新潟県小千谷市、
魚沼地方の中学校を訪ね、大工希望者を募集しました。

中学を卒業したばかりの若者を養成するため全寮制にしよう。
その宿舎となる寮の用意。そして寮監や食事の世話をする人も必要でした。
大工さんの実技指導、建築学指導の他、体育や美術の指導、
さらには生活指導と、あれこれ難題は、ありましたが
とにかく「建築技能養成所」と称して、昭和38年に開校。
第1期生6人の訓練が始まりました。

これが現在の「富建築高等訓練校」のはじまりです。 

つづく   (青)
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第3話 N君

リーン、リーン、リーン、夜中の電話で起こされました。
今頃誰?時計を見れば11時を回っています。

「モシ、モシWですが」
「こちらは牛込警察ですが渡辺富工務店ですね?」
「はい、何でしょう」
「お宅の訓練校にN君がいますか」
「Nはうちの生徒ですが、何かあったのでしょうか」
「未成年者ですから身柄を引き取りに、出来るだけ早く牛込署に来てください。
詳細は、おいでになった時に話します」

風鈴がチリーン。真夏の真夜中です。

富録社長に連絡し、ふたりで牛込署に向う間、素直でおとなしいN君であるだけに、
どうしたのだろう、悪い人に連れ出されたのだろうか等と不安が募ります。

牛込警察署は12時を過ぎているのに皓皓と電気がつき、
数人の警察官が就務中でした。
2階の応接室の様な所に通されました。

「N君が盗んだバイクに無免許で乗っていたのです。
巡回中の刑事が職務質問しようとしたらいきなり猛スピードで逃げ、
ガードレールにぶつかって動けなくなり逮捕されました。
逮捕理由は窃盗と無免許運転ですが、本人も反省している様ですし、
怪我もしていませんので連れて帰って下さい。
今後、この様な事のない様に充分監督、指導して下さい」
と穏やかに言う刑事に「懲らしめの為、一晩、留置場において下さい」と社長。
N君を連れてきた刑事は「留置は法律で出来ません」
そして青ざめているN君の背中を押しながら「二度とやるんじゃないよ」

その夜はN君を寮室まで送って「早く休むように」と言って帰宅しました。

後日家庭裁判所に出廷する様にとの通知が来てN君を連れて行きました。
保護者にも厳重な注意がありました。
その時用意していったN君の訓練日誌を裁判官に見てもらいました。
文も幼稚、字も上手とは言えませんが、
N君が毎日一生懸命書いている日誌を読んだ裁判官は
「君はいい所に就職出来て良かったね。立派な大工になるように頑張りなさい」
と励まして下さいました。

その後N君は3年間の訓練を終了して2級技能士の国家試験に合格しました。
現在は故郷で大工をしています。
還暦も間近く、孫も出来て幸せな家庭のおじいちゃんです。

つづく   (青)
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第4話 事業所内職業訓練校 認定

昭和38年に建築技能者養成所を開設し、訓練開始から6年後の昭和44年4月に
事業所内職業訓練校として東京都より認定を受けることになりました。
名称を富建築高等訓練校としての再出発です。僅かでしたが都から補助金もいただき、
職業安定所(ハローワーク)を通じて生徒の募集が出来るようになりました。

 年間の訓練カリキュラムを作成し、本格的に3年間の訓練が始まりました。
しかし良いことばかりではありませんでした。故郷の知人や縁者の子弟を訓練した
養成所時代には想像出来ないような日々が始まったのです。

応募者は思ったより多く、都内、千葉、埼玉、神奈川方面から多く応募してきました。
高校進学率が90パーセント以上と言う時代にあって、進学せずに大工になろうと
言う生徒は、経済的な理由のほかに、「非行」「いじめ」「学級崩壊」「家庭内暴力」
といった複雑な問題を抱えているものが大半でした。最初から大工になる事を希望して
応募してくる生徒は全体の1割くらいだったでしょうか。

 後日、応募の理由を尋ねると、
・勉強は嫌いだから大工にでもなろうと思った。
・中学時代 非行があって高校進学出来なかった。
・知能が低く高校に入れなかった。
と言う答えです。

驚くと同時に訓練校担当者として、これで本当に大工の養成が出来るのだろうか、
と心配になりました。

次回は、そんな生徒の中で〈九九〉を知らなかったB君のお話をしましょう。

つづく   (青)
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第5話 九九を知らない生徒

ある日の数学の授業です。面積の計算をするプリントを配りました。
・面積を計算するにはどうすればよいか

A君:縦x横です。

B君:俺さ、数学は嫌いなんだよ!

C君:こんなの簡単だぞ、5,6,30だろう

B君:なんだよ その5,6,30てのは?

C君:九九だろう、おまえ、九九を知らねーの?

B君:自慢じゃないけど そんなの知らねーよ。

中学校を終了した生徒が九九を知らない? 今のように携帯はおろか電卓など一般化されていませんから、
自分で計算しなければなりません。しかし九九を知らないとは。その時、私は思いました。
「B君に九九を教えよう」B君は、乱棒で粗野な行動も多く
常に私に叱られたり、注意されたりしていましたが、眼がきれいで
真から悪い生徒ではないと思っていました。よし、B君に九九を教えよう!
   

つづく   (青)
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第6話 九九を知らない生徒 その2

B君の自尊心を傷つけない様に、そして何よりも九九を覚えようとする「やる気」を
おこさせるには、どうしたらよいのだろう。   茜色の夕焼け空を見ながら考えました。

B君は私が「甲」と言えば「乙」と言います。あまのじゃくです。
反抗するために反対のことを言うのですが、
その反応は早く、頭の回転の良さをあらわしているように思いました。
B君の中学校での成績は最下位でした。それはB君の家庭環境や
その他彼の抱えている諸問題による為であって、決して九九を
理解出来ない生徒ではないのではないか!

B君を呼んで言いました。
「建築大工になるためにはどうしても必要な九九を覚えよう。君は覚える気があるかなあ」

「…やるしかないか」
B君はズボンのポケットに手を入れたまま私の顔を見ないで言いました。

「よし、やろうね」早速誰もいない教室で二の段から始めました。
2・1-2 2・2-4 2・3-6 2・4-8 2・5-10…
と黒板に書くと、「2,4,6,8,10」だねと言います。
「次の2・6は」と聞いたら
「12、次は14、次は16、次は18、次は20だろう」と言ったので
「その通り、それを覚えよう」
ににんがし から次々に、にくじゅうはち まで声を出して30分ほど練習しました。

教室を出る時、掲示してある美術の時間に描いた自分の市松模様を見て、
「俺も結構うまいな」と自画自賛した後、 ににんがし にさんがろく・・・
寮まで二の段を繰り返すB君の声を聞きながらハードルをひとつ越えたと思いました。

つづく   (青)
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第7話 九九を知らない生徒 その3

B君が九九の練習を始めてから1カ月位たった頃です。
寮監がこんなことを言ってきました。

「B君が九九を一生懸命覚えようとしているのはわかりますが、
毎晩廊下を歩き乍ら大声で言うのでうるさくて困ります。
それも演歌調の節を付けたりするので、他の寮生から苦情が来ています。
自分の部屋で静かにやるように言ってもらえませんか」

B君頑張っているな、と内心は嬉しく思いましたが、
共同生活をしているのですから、他人に迷惑をかけるような行動は
禁止しなければなりません。

B君に話をすると
「俺さ、寮監がうるさいと文句を言うから、ほんとうはぶっ飛ばしてやろうと思ったけど、
K君が「やめろ」と止めたのでやらなかったんだ、声を出していないと眠たくなるんだよぉ」

「廊下はみんなに迷惑がかかるから、誰もいない食堂へ行ってやりなさい」
「誰もいないとこは、ちょっといやだなー」
「だったら自分の部屋で他の人に迷惑にならない位の声を出してやればいいでしょう。」
「うん、わかった」

次の日、寮の食事の世話をしているTおばさんからこんな話がありました。

B君がね、昨日の夜食堂で何かごそごそ言って歩き回っているから
「何やってんの?」と聞いたら
「おばさん、俺ね九九覚えてんの」
「九九って小学校の時やるんじゃないの、でも勉強しているんだ、偉いね、
10時になったら電灯を消して休むんだよ」
「うん、わかってるー」

それから3カ月位が過ぎたある日、
B君は自分で苦労して作った九九の表をビリビリと引き裂きました。
「どうしたの、大事な表でしょう」
「みんな覚えたから、もういらない」
と細かく細かくした九九の表を机の上に集めてぎゅっと固めました。
すると6人の仲間から拍手が起こりました。私も大きく拍手をしました。
その後このクラスはB君も含め全員試験に合格し、みんな大工さんになりました。

何十年の月日が流れ、B君からの便りに
「今、子供が学校で九九を習っています。俺に似ず頭が良いので上手に覚えます。
あの時馬鹿な俺に九九を教えてくれてありがとうございました」
B君、あなたは決して馬鹿じゃありません。九九を覚える時期が少し遅かっただけですね。

九九を知らない生徒 (完)     (青)
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第8話 やる気を起こす訓練校の教育 1

昭和60年、労働省雇用促進事業団が作文を募集しました。テーマは「建設業に働く若者からのメッセージ」と言うものでした。
昭和52年に富建築訓練校の第8期生として入校した渡部貞夫君がこれに応募しました。
当時、渡部君は入校から8年、22歳。日々現場に出ては棟梁のもとで、腕を磨いていました。率直で仕事熱心な青年でした。
中学の恩師に宛てた手紙文形式に、ありのままの日常を書いたその作文が、なんと第1位優秀作として労働大臣賞を頂いたのです。
題名は「やる気を起こす訓練校の教育」でした。
以下に雇用促進事業団の機関紙「つち」に掲載された作文を紹介いたします。

「やる気を起こす訓練校の教育」

選考終わって選考委員会委員長 加藤地三氏の選評
「やる気を起こす訓練校の教育」 作者は中学校を卒業して建築訓練校に入り、大工の修業をした。訓練校に入るとき中学の先生から『職人になることに誇りを持ち、真心で仕事を覚え、キョロキョロせずに、真底からよい腕の職人になるよう、頑張りなさい』という葉書を貰った。この一枚の葉書がくじけそうになる作者を、折りにふれ、はげまし続ける。
また、この作品が読むものに訴えるのは、訓練校での教育ぶりである。体で覚える訓練校の教育は、中学で「おちこぼれ」のレッテルをはられた作者を変え、素晴らしい大工に成長せる。その過程を淡々と書いたのが良かった。

やる気を起こす訓練校の教育 (完)     (青)
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第9話 やる気を起こす訓練校の教育 2

富建築高等訓練校にはS君の様な生徒もいました。(東京都の訓練大会に出場)

昭和60年代に入校した生徒は中卒か高校中退でした。 親が離婚していたり、非行があったり それぞれ何等かの問題を抱えていました。 叱られたり注意される事はあっても褒められる事など全く無く、暴力や暴言で人に圧力を加えるか、または常に人のうしろからついて行く様なきわめて消極的な生徒達でした。
富建築高等訓練校の教育方針は、全人的な教育でしたから 先ず生活訓練から始めました。 少しでも良い所があったら褒めてやる、認めてやる、そして必ず良くなるという信念で、あせらずに教育しました。
何と言っても彼らにとって一番の教科書は先輩たちでした。一級技能士のAさんも、技能グランプリで優勝したKさんも、外国で日本庭園の中に「あずまや」を造ったMさんも、皆君たちと同じ訓練校で、この寮で生活した人達で、決して手の届かない人達ではなく、毎日現場で君たちの指導をしながら働いている先輩であると教えることによって、将来への希望を持たせる事が出来ました。
S君もそんな一人。 そして東京都の訓練大会ですばらしい体験発表をしてくれたのです。以下にその時の原稿を掲載します。興味のある方はご覧下さい。

【S君の”東京都の訓練大会”原稿】
体験発表に選ばれた自分はいったいどんな男なのか、皆さんに少しでもわかっていただきたくてここに立ちました。
この星の下で生まれ育った18年間、様々な事がありました。決してつまらない日々ではありませんでした。むしろいろいろな事が体験出来たと思っております。

小学校のころに両親の離婚で、母と一緒に住みなれた福島から千葉に転居することになりました。福島の学校ではいつも中心にいた自分は友達と別れるのはつらいものでした。
だけど零地点から始まる千葉での生活に強く心がひかれました。転校して友達を作るのに夢中だった自分は、父との離別を深く考えもせず千葉での生活になじんでいきました。
姉も学校をやめて仕事をはじめました。母は僕を育てるために必死に働き始めました。
そんな母の苦労を知りながら、盗んだバイクで走りだしていました。反抗するというより自分なりに、中学生としての自分を楽しもうとしていたのです。そして、やりたい事を欲望のおもむくままやっていました。
20歳になれば許される酒やタバコを中学生の自分がやりたがっていました。そしてやっていました。法律や常識などくだらない大人のコピーをつくるための鎖の様に思いました。その鎖を引きちぎり、ただただ好きな事をやっていたのです。
学校中のガラスを割ったり、スプレー片手に落書きをかきました。大した理由もなく書きたいからという理由だけで書き続けたのです。そして他人を暴力で傷つけるといった事も、大した罪悪感もなくやっていました。
学校の校則や制度、授業など無意味の様に思い、まったく勉強もせず、母や先生に迷惑をかけてきました。そんな時でも母の悲しい顔をみるのが辛いと思う心はあったのですが、仲間と一緒にいる事によって淋しさをまぎらわしていたのだと思います。

こんな僕を担任の先生や母は高校への進学をすすめたのです。だけど僕は断固就職を希望したのです。高校へ行くのが当たり前の時代に僕の様なのがいてもいいのではないかと思ったからです。
だが母は高校ぐらいは行ってくれと言うだけでした。そこで担任や進路指導の先生が母を説得してくれました。そのとき担任の先生が「また親不孝してしまったな」と言ったのを覚えています。高校へ行って親不孝するより、今してしまうほうがいいと思って就職するという自分の考えを変えませんでした。
しかし就職するといっても、中卒ではある程度決まっています。自信はなかったけれど寮のあるところを希望し、物を造る事に楽しみを持っている事を理由に大工になろうと決心したのです。担任や就職担当の先生が必死になって就職さきをさがしてくれました。そして富建築高等訓練校に入校したのです。

今思えば現在の自分があるのは、この訓練校に入校したおかげなのです。
そんな僕を手のかかる赤ちゃんを育てるように大切に、そしてきびしく教え導いてくれた校長先生や他の先生方は僕にとって2番目の親のような人たちです。
入校してから2年半経ちましたが、これも右に曲がったり、左にとび出したり、決してまっすぐ歩いてきたわけではありません。
中学校を卒業して富建築高等訓練校に入校した仲間は、僕の他に5人いました。M君、N君、S君、Y君、H君、みんないいやつでした。でも 決していい境遇の人達ではありません。さまざまな過去を持っていました。そんな仲間だったからお互いに心の傷がわかりあえたのでしょう。6人で助けあい、励ましあう様になりました。
寮生活で毎日一緒にいるので兄弟の様になるのはあたりまえかもしれません。

でも僕は2年生になった時に、このまま大工見習いをやっていたのでは、一生 大工ですごしてしまう、これではつまらない、もっと何か別な世界があるのではないか、という迷いが出てきたのです。僕は一大決心をして訓練校をやめようと思ったのです。
母も校長先生も他の先生もみんな同じ台本があるように同じことを言いました。
「今やめたってなんにもならない。3年間は、がんばりなさい。」と
中学校にも行って進学指導の先生と3時間も話しましたが僕が期待している答えは誰からも聞くことは出来ませんでした。
それは自分でもよくわからないのですが、何かデッカイ、遠い先のキラキラ光っている星をつかまえたかったのです。

僕はなやみ続け、訓練校にも行かず、仕事も休んでいました。そんなある日、同期に入校したN君から電話があったのです。「いろいろな事があるだろうけど、とにかくもどって来いよ。Sちゃんがいないとおもしろくないよ。」
僕はこの言葉を聞いてとても嬉しかったのです。決まり文句の様な先生方や母の言葉からは感じられない何か別なものを感じたのです。僕はてれくさいのをおさえて訓練校にむかいました。
戻ってみれば、決して居ごこちの悪いところではないのです。皆とてもあたたかく迎えてくれたのです。この友達や先輩は訓練校でなければ知り得なかった大切な人達です。あの時やめないでよかったと今しみじみ思っています。

僕は、人に「君はやれば出来るんだからーーー」とよく言われるのですが、この言葉は好きでありません。なぜなら、やれば出来るという事は、今、何もやっていないと言われているようなものだからです。僕は負けず嫌いな性格だから、良い事でも良くない事でも、やっている時は頑張って精いっぱいやっているのです。やれば出来るのではなく、君なら出来るよ、と言ってもらいたいのです。
山木先生は、君なら出来る、やれよ、と言われます。実際訓練校に来ていろいろんな事をやって、それが出来るのです。
今の僕の目標は2月にある技能五輪東京大会に優勝することです。うちの訓練校では、東京大会優勝、または入賞は今まで連続取っている輝かしい記録を持っているのです。
期待されるという事は僕を認めてくれているという事です。僕は、今まで人に期待された事は、小学校の運動会の時にあったのが思い出されるぐらいで、こんな僕に先生方も班長さんも期待してくれているんです。僕はとても嬉しく、よし頑張ろうと決心しています。東京大会、全国大会、世界大会、夢はひろがっていきます。
会社にいる先輩たちの中には、ソ連に行って日本庭園の中にあずまやを建てた人もいます。スペインに行って建築してきた人もいます。僕が毎日直接技能を教えてもらっている班長さんは、去年技能グランプリで日本一になった人です。
僕は世界一の大工になって見せるぞ、と毎日頑張っているのです。これが大工としての自分の心意気なのです。

言葉で言う事は簡単です、実践することが、むずかしい事なのです。しかし「君はやれる」と言ってくれた先生方の言葉通り僕はやります。母にも先生にも友達にも大工としての心意気を見せようと思っています。
世界一の大工になって。

やる気を起こす訓練校の教育 2 (完)     (青)
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第10話 日本一になった大工さん(その1)

渡辺富工務店には日本一になった建築技能士(大工)がふたりおります。
技能オリンピックの日本代表になった丸山航君とグランプリ大会で優勝した加藤修くんです。

平成5年に工務店が出した暑中見舞いはがきには『建築訓練校を建ててから25年技能五輪は東京大会で優勝すること17回、漸く全日本で優勝、日本代表となり、7月26日万国大会に出場いたします。はたして日の丸の旗を緑の風に翻すことが出来るでしょうか。皆様のご声援をお願い致します』と書いてあります。
社長と私はオブザーバーとして競技会場の行われる台湾の台北に同伴いたしました。出発前に選手たちは皇太子殿下より励ましのお言葉を頂き、優勝を誓い、胸を躍らせたことでしょう。
競技会場に着いた丸山君は渡された図面を見て息を呑みました。それは英語とフランス語と中国語で書かれていて、分かるのは数字だけだったのです。普段から物怖じしない冷静な丸山君でしたが、語学力の無いことが悔やまれ、数字だけが頼りの競技が始まりました。
通訳の人はいるにはいるのですが、日本人ではなく、建築の専門家でもなく、同時に行われる他の職種の数人も受け持っていました。丸山君が分からないことを聞きたくて手を上げても、すぐには来てくれず、また言葉の直訳に丸山君は納得できないまま、時間ばかりが過ぎてゆきました。
中には自国から通訳を連れて来ている国もあって、選手に寄り添って通訳している姿を見て、自費を払ってでも建築の分かる語学力のある人に通訳を頼まなかったことが悔やまれました。
言葉の壁と言うハンディの中、丸山君は良く頑張りました。ただ最後の最後に痛恨のミス、左右を反対にし、作品は修復不可能になってしまいました。残念ながら万国技能オリンピック大会で日の丸の旗を揚げることは出来ませんでしたが、技能では決して負けていませんでした。競技中回ってきた審査員はみんな丸山君の作品を見て指でOKサインを作り、上位に評価しているのが見ていることしか許されないオブザーバーの私にも分かりました。
結果は6位で敢闘賞をいただきました。優勝は出来ませんでしたが、丸山君の人生には日本代表として世界の桧舞台に立ったことがどれほど大きな自信と力になって残っていることでしょう。後に続く若い人には大工さんも国際人として語学力を身につけていただきたいと思います。
次回は加藤修君です。

日本一になった大工さん(その1) (完)     (青)
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